【Sitrep】京都洛北静原行(だいたい任天堂のせい)

kakurenekokakureneko ✭✭
編集済:05/25 SITREP

昨年からのCOVID-19パンデミックの影響がまだまだ続く現在であるが、昨年とあるゲーム関連のネットメディア記事がきっかけで気になった件があってその確認に行く筈が、京都洛北方面で過去に存在した金毘羅信仰に纏わるミッションの存在を知り、そのミッションもクリアした件についてSitrepを書こうとするも正直面倒で放置していたのだが、今更ながらやはり書くことにした。

それに合わせて当時の移動中にその存在に気付いて疑問に思うも調べることが出来なかった構造物に関し、それが存在している地点に改めて調査の為に向かったので、その事についても書くことにする。


◆イントロダクション

きっかけはファミ通.comと4Gamerに掲載された、昨年行われたCEDEC2020における任天堂の『あつまれ どうぶつの森』アート担当スタッフによるオンラインセッションの記事(https://s.famitsu.com/news/202009/05205296.html及びhttps://www.4gamer.net/games/433/G043370/20200905003/)である。

"ポケ森"こと『どうぶつの森ポケットキャンプ』の配信開始から間もない時期、自分が所属している非公式AGコミュニティの一部の者がそれをプレイしはじめるもアプリの出来に対する不満を言っていたのを見た上にTwitter上の反応でも結構顰蹙を買っていたのを見て、"コンシューマーゲームで遊ぶ"という事から長らく離れていた自分はかの任天堂が作ったiOS/Android向けアプリゲームの出来がどれだけ酷いのか話のネタにしようと思いポケ森をプレイし始めた結果、自分のエージェント活動の原動力のひとつとなっていた"世の中に対する自らの怨嗟"を一瞬ボロボロにしてくれた「とたけけ」──皮肉にもそれは自分が過去に唯一夢中になった任天堂の作品に関わったコンポーザー案件でもある──という存在に対する負の感情も含めた複雑な思いとナイアンティックや日本のAGコミュニティへの失望もあって今やスキャナーそっちのけでプレイし続けているという有り様に陥り、それ故どうぶつの森シリーズに関するゲームメディアの記事に目を通す事も多くなった。そういうわけで前述の記事を見た自分は記事に掲載された講演スライドのスクリーンショット画像の1枚に写っていた神社がどこであるのが大変気になり、

該当の神社は、

・関西圏の人里近くの針葉樹メインの山林の周縁で京阪神圏及び京阪奈圏から日帰り可能な場所にある

・境内の建造物は数段の石垣の上に存在し山林と反対側(写真では手前側)は草地である

・神楽を奉納する為と思われる舞殿(およびそれを兼ねた拝殿)が存在する

・舞殿におそらく神社の名前が記されていると思われる古い扁額が掲げられている

・鳥居の位置と舞殿の扁額の位置関係からして本殿正面方向に鳥居が建っていない

・敷地内にかなりの樹齢であると思われる針葉樹が数本存在しそのうち一本には注連縄が巻かれている

・あくまで直観ではあるが構造物の様子から創建年代は19世紀の明治維新以前で現存する社殿も長らく新築及び改築した様子がない

と推測、日本語圏のネット上に複数存在している神社関連のデータベースで該当する神社が無いか検索した所、京都・洛北は静原にある静原神社の可能性があると判断、その地点のGoogleストリートビューを探したところ当該地点の境内の画像が例のスライドに使われていた神社の画像に写っていたものとほぼ一致していたのである。

ポケモンGOの発表以後、任天堂の製品及び作品群におけるXMの恒常的かつ尋常ではない影響の関与と任天堂経営陣と近い関係にある内部のクリエイターにエージェントが複数名存在している可能性を強く疑うようになった自分は当時この事を興味深く思い──その疑いは今年3月のナイアンティックと任天堂からのピクミンアプリ配信予定のアナウンスでほぼ確信へと変わったが──、該当の場所は既にポータルが存在しているだろうとIntelMapで確認すると、やはり「静原大明神」(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.111468,135.789831&z=18&pll=35.111168,135.789823)として登録済みであった。

そこで時節柄文句を言われるのは百も承知で、本邦政府や自治体がこの期に及んでもなお都道府県間の移動制限要請しか出来ないのを良い事に、ひとりで現地調査を実施しようと思い立った。

因みに目的地である静原神社についてネットで調べると葵祭で知られる上賀茂神社及び下鴨神社と縁深く、かつては葵祭に欠かせない葵(フタバアオイ)の葉を調達していた神社であったそうで、また京都・洛北のトレイルルート上にある神社としても知られている模様である。そうであるならば上賀茂神社及び下鴨神社周辺を起点とした静原神社に向かうルートを通るミッションが有るのでは……と探していたところ、「下鴨神社 鳥居」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.037667,135.772757&z=19&pll=35.037752,135.772762)のある下鴨神社のニの鳥居を起点とし静原と大原の境に位置する金毘羅山にある琴平神社──山の中腹にある琴平新宮社と山上にある琴平神社奥宮の2ヶ所が存在するが、山上の琴平神社奥宮は「金毘羅権現神社」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.120021,135.807985&z=16&pll=35.118202,135.808898)として登録されている──への参詣客の道中安全を祈願して19世紀前半の幕末期に建てられた石灯籠を巡るミッション「金毘羅大権現の灯篭めぐり」(https://intel.ingress.com/mission/b50dd93f153648b2acdf917fc86adfb6.1c)の経由地点が当該地点の近くであると知り、折角なのでそのミッションもクリアすることにした。


◆時間ロスだらけの下鴨神社~深泥池貴舩神社来訪

昨年(2020年)の9月15日、家族に同行して奈良市内を訪れる用事が終わった後、自分は静原行きのミッションを開始すべく下鴨神社へ向かった。

下鴨神社に到着したのは15時過ぎ。正直この時点でミッションを開始しても公共交通機関を利用した場合は当日中のクリアは無理と思うべきであったが、何とかなるだろうと思いミッションを開始してしまう。

このミッションが下鴨神社の二の鳥居をスタート地点としているのは、ミッションの主題である金毘羅山の琴平神社への参詣ルート沿いに建てられた石灯籠のひとつが下鴨神社境内にあるという内容の「NPO法人京都観光文化を考える会・都草」のサイトにあった会員の研究報告会の記事(http://www.miyakogusa.com/?activity=activity-22338)に書かれた話を元にしているからだろう。因みにこの話によると現在下鴨神社境内にあるその石灯籠は元々は下鴨神社の南にある葵橋の東詰に建てられていたらしく、静原側からの金毘羅山の琴平神社への参詣ルートの起点は本邦の怨霊伝説の主人公として名高い崇徳天皇(崇徳上皇・崇徳院)所縁の神社である安井金比羅宮、若しくはその北側にある崇徳天皇廟だった可能性があるそうだ。金毘羅信仰自体は明治維新後の本邦政府の神仏分離令によって祭神を毀損された神仏習合に基づく水神(海神)・山岳神信仰だが、崇徳天皇の怨霊伝説が金毘羅信仰と結びついたのは神仏習合が当然だった時代に配流中の崇徳上皇が讃岐の金刀比羅宮に祈願の為に籠ったという伝説が創られた故である。なおミッション説明文によると金毘羅山に纏わる話として崇徳天皇の側室で彼の讃岐配流に同行し後に帰京した兵衛祐局がこの地に彼を祀ったとの事だが、金毘羅山はかつて江文山と呼ばれ山中に江文寺という神仏習合の寺院が存在したことも背景にあると思われる。因みに江文寺自体は衰退の末に19世紀後半の明治時代の神仏分離令に伴い江文神社となって今に至っている。

江戸時代の日本は有名な寺社への参詣が身分の低い層にまで広まった時代でもあり、参詣の為の金策確保と地域民の結束の強化を目的とした講と呼ばれるコミュニティまで登場した。金毘羅信仰の総本山である讃岐の金刀比羅宮への参詣旅行も金毘羅講と呼ばれる請を中心に当時の日本国内の各地域で頻繁に行われ、京都の洛中と静原の金毘羅山を繋ぐ参詣ルートの成立もその影響を受けたものなのかもしれない。

しかし崇徳天皇というと、保元物語の「皇を取って民とし民を皇となさん」という配流先の讃岐国(現・香川県)での怨嗟エピソードを含め死後に体制側主導による「祟り神」認定をもって名誉回復が行われたが故に創作物の格好のネタにされてきた君主であるが、前近代の歴代中国王朝の歴史書であればどんなに同情気味に評されても「暗愚の君」扱いされて終わりなのではと思うのは自分だけだろうか。

なお史実における崇徳天皇はその治世においては当初は3代前の天皇だった白河法皇が実権を握り、白河法皇亡き後は父にして先代天皇である鳥羽上皇が実権を握り、最終的には鳥羽上皇の意向によって退位に追いやられて上皇となるもその後の後継者問題も絡み院政期の上皇としては珍しく権力の座から遠ざけられた状況下に追いやられていた。それ故に彼は怨霊伝説の由来でもある保元の乱の当事者となり自滅に至るが、中華圏の影響で詩歌の創作スキルを重視した前近代の日本の支配者層において天皇・上皇という立場である上に和歌の創作に熱心だった事もあり、当時の支配者層内部における歌壇の中心人物の座を必然的に担ってもいた。彼が創ったとされる和歌のひとつ、

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

は後世にカルタのかたちで日本社会に広く流布した13世紀の鎌倉時代以降に編纂された和歌集・小倉百人一首に収録されており、落語の『崇徳院』はこの和歌に肖った者を巡るドタバタ劇を描く。彼の存在とその和歌を任天堂などが製造販売している百人一首カルタで知ったというエージェントもいるのではなかろうか。なおこの和歌は、彼が退位後上皇に就いた後に彼の命令で編纂された『久安百首』に収録の、

ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われても末に あはむとぞ思ふ

という彼の和歌を改作したものである。

下鴨神社二の鳥居の傍に、神社参道の石灯籠とは外観の異なる常夜灯の文字が彫られた石灯籠が1基存在する。かつて葵橋東詰に建っていたという金毘羅灯籠のひとつがこれなのだろうか? 参拝がてら境内の立ち入り可能な場所も一応回ってみたが、今回のミッションで巡る他の金毘羅灯籠と外観を同じとする灯籠の存在がこれ以外にあるのかどうかまでは判らなかった。

下鴨神社境内の拝殿前にある舞殿。自分がネット上の情報を頼りに静原神社を特定する手がかりのひとつとなったのが、この舞殿のような大規模な神社はおろか小規模かつ観光資源化していない神社でもあまり見られないであろう建造物の存在である。とは言うものの実は自分は日本仏教と神道の寺社建築にとりわけ詳しいと言う訳ではなく、今まで興味を示して来た物事に関する記憶がたまたま功を奏したまである。

自分が下鴨神社に来たのは実はこれが始めてなのだが、季節柄流れ出る汗と寄ってくる蚊が鬱陶しい状態での調査とミッションスタートとなった。重度の花粉症でも無い故にCOVID-19パンデミック以前は風邪でもひくか埃まみれになるような事をやらない限りサージカルマスクをつける事などまず無く、パンデミック確定後もワクチンや治療薬が開発されて普及しない間は体調に関係無くてもマスク着用が対策のひとつとして効果があるという事が専門家の見識として固まるまでマスクを着けなかった程の自分なので、マスクの内側で止まらない汗も鬱陶しかったのだがパンデミックが続く間は仕方ない。そんな気分的に煩わしい状況であるにも関わらず参拝がてら境内のポータルキャプチャを始めてしまいミッション開始早々時間ロスをやらかしてしまう。

そして次の通過ポイントである深泥池貴舩神社(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.059351,135.766253&z=19&pll=35.059396,135.766227)を目指すのだが、バスでの移動を目論んで北大路バスターミナルに向かうも乗るべきバスに間に合わず結局徒歩で移動する事にしたが、今来たこの道を戻るのも面倒と思い賀茂川西岸を北上した結果更なる時間ロスを招いてしまった。

深泥池貴舩神社に到着したのは17時頃。この時点でミッションの一時中断の判断をし、この日はここで引き返す事に。

深泥池貴舩神社の金毘羅灯籠。境内に入って直ぐ右側に建っている。横に同じタイプの石灯籠が建っているが、関連したものなのかどうかは判らなかった。

因みにこの深泥池貴舩神社だが、洛北・貴船にある貴船神社がやはり洛中から遠いという理由で当時の洛北方面への主要道路だった鞍馬街道が通る深泥池西側のこの地に創建された神社であるとの事。境内には京都名物のひとつのすぐき漬け発祥伝説のある摂社・秋葉神社があり、最近では節分の豆撒き発祥伝説を主張したりと小さいながらも中々ユニークな神道の信仰の地である。因みに貴船神社は江戸時代まで上賀茂神社の管理下に置かれ、それが元での両神社間の係争も起きていた。節分の豆撒き発祥伝説の"鬼が貴船神社と深泥池の畔を繋ぐ洞穴を通ってやって来た"という内容も両神社間の係争を背景とした上賀茂神社側の視点からの創作としか思えず、またすぐき漬け発祥伝説も"賀茂社の関係者が明治維新に伴う政府の神仏分離令により境内の仏教由来の事物を壊しに来た"というこの神社もかつては上賀茂神社の管理下に置かれていた事を示唆するような内容から始まっている。なお神社の前には鞍馬街道が通っているが住宅街を通る狭い道ということもあって自動車の通行があるので来訪の際は要注意である。


◆二軒茶屋バス停近くの石灯籠から静原神社へ

3日後の9月19日、中断した金毘羅灯籠ミッションの再開そしてクリアと静原神社での調査実施を果たすべく再び洛北へ向かった。

この日のスタート地点は叡山電鉄二軒茶屋駅最寄りの京都バス二軒茶屋バス停南側にある金毘羅灯籠──現在「安全の灯籠(金毘羅灯籠)」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.078029,135.764896&z=18&pll=35.077703,135.76432)として登録済み──にした。ミッション自体の通過ポイントはこの先にある静市市原町の厳島神社の「市原 厳島神社」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.08802,135.762201&z=19&pll=35.087993,135.761961)なのだが、それはミッション説明文にもある通り、ミッション作成当時はまだこの石灯籠を含めた二軒茶屋駅前一帯におけるポータルの情報が登録されていなかったからという事情がある。従って金毘羅灯籠巡りとしてミッションを再開するのであればこの灯籠のある場所が妥当であると考えたからだ。ここに到着したのは14時半前。本当はもう少し早く来るべきだったと思うが生活リズムが完全に夜型な今の自分の状況では中々難しい。

灯籠の柱部分側面に建てられた年月が記されているが、自分には"文政二"と思われる3文字までしか判らなかった。文政という年号が使われたのは1818年から1831年までの13年間なので、文政2年(1819年)に建てられたという事なのだろうか。

この金毘羅灯籠であるが、この辺りの区間ではかつての鞍馬街道を通る京都府道40号線との交差点に面した駐車場の片隅に存在し、府道40号線は乗用車やバスのみならず大型ダンプカーも頻繁に走る交通量が少ないとは言い難い道路で、また府道の向かい側には住宅兼商店があるので写真撮影の際は注意を要する。

ここから第3の通過ポイントである静市市原の厳島神社には徒歩で向かう事にした。しかし府道40号線を北進する気が起きず近くに裏道がないか探すと、府道と叡山電鉄本線の間を流れる川沿いに遊歩道があるのを見つけてそれを通り、住宅街を抜けて小野小町終焉伝説所縁の小町寺こと如意山補陀落寺の南側で再び府道40号線に戻り、スキャナー上にポータルとして示された補陀落寺をはじめとした府道沿いに残っている鞍馬街道の痕跡を経由するかのように通過ポイントに向かって北進した。

市原の厳島神社に到着したのは15時を過ぎてからで、ここにはあまり用はないので手短に参拝して次の通過ポイントと今回の調査の目的地である静原神社に向かう為に近くのバス停で待とうとしたが、時間潰し目的で京都バスの市原バスターミナルまで歩くことに。実はここで叡山電鉄市原駅に向かう道でもある本来の鞍馬街道ルートの細い旧道に気付いていれば遠回りしなくても済んだのだが、静原・城山行きのバスにはなんとか間に合い乗車することが出来た。

市原から先は大原方面に向かう府道40号線に沿って静原まで移動する事になるのだが、Googleマップの空撮写真を見た限りでも道幅が狭い割に歩道が見当たらない場所があり、またこの区間も時間帯によっては大原方面との交通量が結構あり(後述するが江文峠からの帰路でそれを思い知らされる事となった)、自動車・バイクを運転しての移動が可能な者あるいは自転車でもロードバイクを趣味にしている者以外は運行本数に限りのある路線バスでの移動が望ましい。かなり遠回りになるが鞍馬方面から往時の古道である薬王坂を通る京都洛北のトレイルルートを経由するか、市原から一旦京都市街に引き返した後バスで大原方面へ移動し往時の峠越えの古道である江文峠のトレイルルートを経由する(但し「金毘羅大権現の灯篭めぐり」ミッションは静原方面からのアクセスでなければクリア出来ない為このルートを使うと二度手間になる)という手段もあるが、トレッキングの知識と経験と体力が無ければリスクが大きい移動手段と思ったほうが良いだろう。

路線バスに乗って静原に到着したのは15時半過ぎだが、金毘羅灯籠巡りミッションの第4の通過ポイントはミッション作成時期の都合なのか「静原神社」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.11014,135.781725&z=17&pll=35.108084,135.783724)として登録されている静原神社摂社の天皇社である。その為天皇社の最寄りである京都バス静原御旅町バス停にて下車。この時の静原神社ポータルこと天皇社のポータルは自分が例のスライドの場所が静原神社なのではというツイートをした後にENLエージェントによってキャプチャーされていた事をIntelMapで確認済だったのだが、実際の静原神社の場所にある静原大明神ポータルとその周辺は誰もキャプチャーしていない状況だったので、参拝とポータルハック及び強化とポータルスキャンをして天皇社を後にした。因みにこの天皇社については、静原神社の方も含めて現地に祭神について記してある看板等はこの時は見当たらなかったのであるが、静原神社の境内にある由来の看板に書かれた天武天皇の避難伝説と関係しているのか、京都市公式サイトの静原の里マップ(https://www.city.kyoto.lg.jp/sakyo/cmsfiles/contents/0000120/120790/24mapura.pdf)には仲哀天皇と天武天皇を祭神とするとの記載がある。

静原神社に向かう途中、もうひとつの摂社である若宮神社へ。祭神が何か判らない上にまだポータル登録されておらずいないので、祭神の手掛かりを見つけてポータル申請を試みようとしたが、神社に向かう道が私道だからか道の入口に自動車が停められており近付けず断念した。

そして本調査の目的地、静原大明神ポータルこと静原神社に到着したのは16時頃。

早速境内南側の道路上から例のスライド画像の"答え合わせ"目的の写真を撮る。そして調査の為に参拝。

神社の由来を記す看板。この地での祭祀開始が和銅4年(711年)とする話が事実であれば8世紀前半から存在している事になる。

舞殿か拝殿と思われた建造物はやはり舞殿であった。下鴨神社の境内にあるそれと比べればこじんまりとしたものではあるが、他にも舞殿と他の社殿との間に玉垣と門を設けて仕切っていたりと全体的に下鴨神社の社殿の造りと似ているところがある。但し主祭神はイザナギ(伊弉諾)とニニギ(瓊瓊杵)であり、元々この神社が下鴨神社の主祭神タマヨリヒメ(玉依姫)・カモタケツヌミ(賀茂建角身)や上賀茂神社の主祭神カモワケイカヅチ(賀茂別雷)のような賀茂神信仰とは異なる信仰の神の祭祀の場であった事が伺える。それもそうで境内の由来の看板の内容が事実であれば静原の地が下鴨神社の社領に置かれたのは16世紀の安土桃山時代以降ということになり、葵祭に使われる葵の葉の調達もおそらくそれ以降の話だったのではなかろうか。

神社境内に隣接している公園から境内を撮ってみた。境内側の公園入口すぐのところに植えてある背の高いモミジの樹は紅葉の季節になるとさぞや美しいだろうが、緑の葉の時期のモミジも美しい。自宅から気軽に行けるモミジの名所は奈良公園なのだが、このモミジの樹もなかなかのものだ。

モミジの樹の下から一の鳥居方向を撮る。一の鳥居は道路に面する形で立っており、例のスライドに写っていた鳥居はニの鳥居だったのである。そしてここの鳥居は一の鳥居・二の鳥居共に柱の前後に小さな柱がつく両部鳥居と呼ばれるタイプのものだ。

もちろんキャプチャーとポータルハックも行った。というかここでこれをやらなければ調査に来た意味が無い。ついでに小さいCFも作成した。そして今回の最大の目的である静原神社での調査を終えた自分は日没差し迫る中、同時進行の金毘羅灯籠巡りミッションの終点である江文峠へと向かった。


◆江文峠到着からの静原離脱危機一髪

静原神社前の金毘羅灯籠については、形は他の金毘羅灯籠とは大きく異なるものの、すぐ横に金毘羅大権現と刻まれた石柱が建っておりそれであると判る。

江文峠に向かう府道40号線は静原小学校の東側にある京都バス城山バス停から少し東へ進んだ所で歩道が途絶え、この地域の人家もその歩道が途切れた辺りから峠に向かうトレイルルートでもある細い道を少し進んだ所で見当たらなくなる。

集落の果て、道の舗装も無くなり建築資材置場と思われる構造物があるあたりを過ぎた所が峠道のスタート地点である。正直不穏な感じがするが気にしない。

坂道に入る前はまだ何とか余裕。問題はここから先である。

江文峠まであと300m。但し急坂の途中。

何とか峠の坂道を登りきり、最終目的地の江文峠に到着。ここで山道としての峠越えルートは府道40号線を横切り再び山林の中へと入っていくが、金毘羅山の琴平神社に向かうには今回の金毘羅灯籠巡りミッションの終点である「三体不動明王 金毘羅大権現」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.113446,135.80482&z=15&pll=35.111772,135.808408 )として登録されている石碑の向こうにある鳥居の先の山道を登る必要がある。なおここには今まで見てきた形の金毘羅灯籠は見当たらず、鳥居の両脇に細長い石灯籠があるだけだった。ここの石碑に記されている三体不動明王とは前述した江文寺の痕跡のひとつである不動明王とその脇侍の矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)を祀る祠の事を指し、その祠も「江文寺不動尊」ポータル (https://intel.ingress.com/intel?ll=35.118318,135.805683&z=16&pll=35.116513,135.809042)として登録されている。

後は日没そして京都市街行きのバスの便の時間との勝負である。峠越えで大原側に降りる計画は最初からないので江文峠ポータルをポータルハックして金毘羅灯籠巡りミッションをクリアした後、キャプチャーして静原方向へリンクを飛ばし静原側に引き返す事に。しかし日没まで時間がなく、数年前に下り坂で転倒して踝の骨を裂離骨折しその後も平地で段差に躓き転倒して再び踝の骨を裂離骨折してしまった事のある自分は、登山杖の類を持参していないこの状態で山道を引き返すのは危険と判断、本当は歩きたくなかった府道40号線の端を歩いて峠を降りる事にした。

そして案の定、時間帯がちょうど夕方ということもあって江文峠を通る車の数が段々と増えていき、歩道のない峠越え区間の端を歩いて降りていたこの時の自分は残念なことに通行していた自動車にとって邪魔な存在でしかなかった筈だ。

静原の集落まで戻った自分は、京都市街方面行きのバスが来るまでまだ時間があると思って再び静原神社へ。というのも江文峠のポータルから静原大明神ポータルと天皇社の静原神社ポータルにリンクを飛ばしたことでポータルキーを使ってしまったからだ。しかし静原神社に向かう途中で目の前を17時台の京都市街方面行きのバスが通り過ぎ、しかも土曜ダイヤということもあって次のバス、それも京都市街方面行きの最終便が来る2時間以上もの間、日没後の静原集落で待機する羽目に。

という訳で天皇社と江文峠を繋ぐCFを作成。

日没時の静原の地で見たものは、集落のバス停横の愛宕灯籠の灯りや天皇社の神前の灯といった、今なお生きている風習と信仰の灯であった。

静原神社境内には宮司住み込みの社務所はなく、そのような日頃から無人の神社の摂社である天皇社において日没時に献灯が行われているのは、神社の氏子による日課が欠かさず続けられているという事ではなかろうか。

集落のバス停横に建っている愛宕灯籠。火伏(火災避け)の信仰のひとつとして知られる愛宕信仰の本拠地も京都・洛西の愛宕山にある愛宕神社であり、江戸時代以後の愛宕信仰も金毘羅信仰同様に寺社参詣目的の金策確保と地域民の結束強化を目的とした愛宕講と呼ばれる講の存在で維持されているが、静原の愛宕灯籠の灯は前述の京都市公式サイトの静原の里マップによると集落の住人が日替わりで当番を受け持ち灯しているとの事で、それはつまりこの地域の愛宕講の存在を示唆するものであろう。

そして静原御旅町のバス停で長らく待った自分は京都市街方面に向かうバスに乗り、お日さまとさよならした静原の地を後にした。

今回の静原行きと平行しての金毘羅灯籠巡りミッションであるが、実は当初時間が有れば金毘羅山の琴平新宮社にも行こうと考えていた。しかしネット上の登山記録等の情報を見た限りでも、標高500m級という登山初心者向けの低山の中腹かつ比較的整備されている場所とはいえやはりそれなりの服装と装備をした上で行くべきと判断して断念。その一方でミッション終了後に安井金刀比羅宮に行く事も考えたが、北大路バスターミナルに戻って来たところでこれ以上帰宅が遅くなっても疲れるだけと判断して結局行かなかった。


◆採石場前の謎の灯籠と市原の愛宕灯籠

今回クリアした金毘羅灯籠巡りミッションの元になった京都・洛中からの旧街道沿いに残る金毘羅灯籠に関しては、前述の「NPO法人京都観光文化を考える会・都草」公式サイトの記事によれば静市地区内にもう一基存在したかもしれないという。それと関係しているのかどうかはわからないが、場所としては二ノ瀬トンネル南のT字路を静原方面へと曲がった先、建材業者の敷地の前の京都府道40号線の歩道上に石灯籠が一基置かれているのを市原から静原の間を移動する路線バスの車窓から確認し、後程その場所のGoogleのストリートビューを見るとやはり石灯籠が設置されていたのを確認出来たので、そのうち現地を訪れてそれが金毘羅灯籠の痕跡を示す為に設置されたものなのかどうか確認したい、そしていつか静原・金毘羅山の琴平新宮社にも行ってみたいと思いながらも、結局日頃の出不精ぶり故に行く気にならず、また今回の調査のSitrepを書こうと思うもなかなか書く気が起きずに年を越した。

そうしているうちにナイアンティックの"新作ゲーム"として任天堂のピクミンシリーズのスピンオフアプリの発表があり、やはり昨年の静原行きのSitrepを書いて何処かに公表しなければいけないという気持ちに駆られるようになった。そして自分が存在を把握した建材業者敷地前の石灯籠の現物確認もすべきだろうと思い、先日(5月8日)再び京都・洛北に向かった。

先日の洛北行きでは京都市街地からの路線バスは使わず、叡山電鉄市原駅で下車。但し自宅を出発したのが遅かったこともあり到着したのは17時過ぎ。石灯籠がある場所はここから徒歩で30分もかからない所であるので日没にさえ間に合えばよい。

昨年の静原行きの際には気が付かなかった市原の鞍馬街道旧ルートは、叡電市原駅と市原バスターミナルを繋ぐ道でもある。

市原バスターミナル東側の踏切から府道40号線を撮ったもの。ここも歩道の無い場所であり、踏切のすぐ北側にかかる橋を渡って住宅街横の川沿いの道を北進し再び橋を渡った方がより安全に目的地に到達出来たという事を帰路にて知ることとなった。

そして今回の目的地に到着。気になっていたのはこの石灯籠である。場所としては上記画像の上から3枚目の地図上にある青い点が示すところになる。灯籠のタイプとしては日本庭園の装飾としても定番の春日灯籠と呼ばれるものであるが、そんなに古い時代のものではなく作られたのは前世紀後半以降ではなかろうか。

だがこれが静原の金毘羅山への参詣ルートを示す金毘羅灯籠なのかどうかは現物をみた限りでは全く判らず、それ故ポータル申請もしなかった。この灯籠のある場所の横にある建材業者に関係者がいるのであれば訊いてみようかとも思ったが、結局訊かずにその場を後にした。

徒歩で市原駅に戻る途中、今回の目的地に向かう際に見かけた愛宕灯籠がまだポータルになっていなかったこともあり、ポータルに相応しいかどうか見定める。この時は新しい灯籠のように見える石柱が実は愛宕神社の神札を納める祠(御札入れ)である事を知らなかった。祠の上部に枯れたシキミの束が3本括りつけられている三叉の棒があるのは、この灯籠にまつわる風習が健在である事を示唆するものだ。ちなみにこの三叉の棒は静原集落の愛宕灯籠では見かけず、ネット検索するとどうやら京都・洛北の一部に見られる風習とのことで、「お飾りさん」と呼ばれていて洛北地域でも松明を使った愛宕信仰の祭礼「松上げ」が行われている地域の風習である由を書いたツイート(https://twitter.com/san_en/status/1264165499115433987?s=09)があった。

御札入れは昭和55年(1980年)1月に建てられた由が記されているが、灯籠のほうは側面に建てられた年月が刻まれてはいるものの、この時の自分には20世紀前半の大正時代のものかもしれないという事以外は読み取れなかった。

この愛宕灯籠については、ここから南の府道40号線と鞍馬街道旧ルートの分岐点のところに存在する「常夜灯」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=35.089326,135.758118&z=17&pll=35.088461,135.762414)として登録されている鞍馬街道の痕跡のひとつの愛宕灯籠と関連したものと判断し、「愛宕灯籠(叡電市原駅前)」の名でポータル申請を行った。なおこの件については後日ポータル申請通過のメールがナイアンティックより届いた。

折角なので「常夜灯」ポータルこと府道40号線沿いの愛宕灯籠にも行ってみた。こちらも灯籠横に建っている愛宕神の祠の上部に三叉の棒が設置されシキミの束が括りつけられていた。日本仏教の風習に欠かせない植物であるシキミだが愛宕信仰においても欠かせない植物だったりするところ、愛宕信仰が本来は神仏習合の信仰であったことの証とも言えるだろう。

京都市街行きのバスを市原駅周辺で待っていても退屈なので徒歩で南下し、二軒茶屋駅前の金毘羅灯籠を再び尋ねた。ここの金毘羅灯籠に灯りが点された時代は遠くなり、灯が再び戻って来る事はもう無いのかもしれない。静原の金毘羅山の琴平新宮社は地域住民の信仰の場として残っても、江戸時代以降の京都で行われた洛中と金毘羅山を繋ぐ金毘羅信仰は時代の変遷で下火になり実質無くなってしまったか、まだ残っていたとしても参詣の為の移動手段として徒歩を必要としなくなったという事だろう。

そしてこの日も安井金比羅宮を訪れようと思うも、七条・正面通某所におけるスキャナー上の情報と『ポケモンGO』及び『ハリー・ポッター魔法同盟』のプレイ画面との比較の為のスクリーンショットを撮りたいと思い、そちらを優先した結果行かずじまいになった。


◆あとがき

結局発端は「だいたいNIA以上に任天堂(というか『どうぶつの森』というコンテンツ)のせい」な三度に渡る京都・洛北での調査だったが、任天堂作品における静原神社一帯のポータルからのXMの影響を調査するという本来の目的そっちのけで、日本語圏のネット上で閲覧出来る情報も参考にしながら金毘羅信仰や愛宕信仰に纏わる洛北地域の事物の存在にほんのちょっと触れる興味深い機会となった。行けなかった安井金比羅宮と静原の琴平新宮社はそのうちいつか訪れたいが、その機会を自分が作る時が来るのと自分がCOVID-19への感染等で最悪この世との"縁が切れる"或いはNIAがスキャナーの提供をやめてしまうのと、果たしてどっちが先になるだろうか。昨年の初め以降、任天堂もPRに加担している2020東京オリンピック・パラリンピックの動向も含め、自分の気分は『太平記』の後半で描かれた愛宕山の異界に結集し形而上の世界から世を正す為の騒動が再び起きるよう仕向けなければと策を論ずる崇徳天皇はじめとした怨霊勢や天狗勢にちょっとだけ近かったりするのだが、残念ながら自分には不思議な力で世を正すスキルなど元からない。もし仮にそんなスキルを持っていた或いは手に入れたところで悉く面倒な事態を招くだけだろう。

ところで任天堂作品(特にどう森シリーズ)における静原神社一帯のXMの影響とやらは結局どういうものなのだろうか? 敢えて無理矢理にでも定義するならば、"水のようなもの"に他ならぬのではないのだろうか。古代中国の思想家・韓非の著とされる『韓非子』に「盂方水方、盂圜水圜。」という「水は方円の器に随う」という諺の元となった世の中の道理を水とそれを入れる器(盂)に例えた孔子のものとされる言が載っているが、XMが与える影響がどのようなカタチで世に出るかは結局影響を受けた者の技量と感性を遺憾無く発揮出来る環境を生み出す諸条件の積み重なり次第なのである。XMの持つ力は『平家物語』の前半において白河法皇(白河天皇)のボヤキの中に登場する「賀茂川の水」のようなもので、事実昨年のCOVID-19パンデミックが確定した直後に世に出された『あつまれ どうぶつの森』は世の多くの事象を巻き込む激流となって一世を風靡しているが、コンシューマーゲーム機の覇者の座を降りて久しい任天堂にまだまだそういう力が残っているのもこれまでの諸々の積み重ねの果てにXMの影響を受けたクリエイター達がその感性と技量を発揮出来る場所という"器"になっているからだと言えよう。しかしその"器"とやらも結局のところは日本社会における各種のヒエラルキー(特に産業界のそれ)ありきでしか成り立たない"砂上の楼閣"でしかなく、それ故の歪みの影響も作品の中に現れているのではと思うのは自分だけだろうか。

以下はおまけ。前述した3度目の京都・洛北行きの帰りに立ち寄った時の、京都・七条は正面通某所における現実世界・スキャナー・『ポケモンGO』及び『ハリー・ポッター魔法同盟』でのプレイ画面上での状況である。

ポケモンGOではポータル密集地域における全ポータルの情報がポケストップ及びジムとして反映されない場合が多い上に配信直後の狂乱ぶりが災いしてポケストップ及びジムが置かれた場所の管理者から情報の消去を求められたナイアンティックがある程度それに応じた事もあり、山内任天堂旧本社ビルにある「任天堂発祥の地」ポータル(https://intel.ingress.com/intel?ll=34.991662,135.765239&z=19&pll=34.991642,135.766305)の情報が反映されていないのも何ら不思議ではないのだが、魔法同盟の方ではどうなのだろうと思っていたらちゃっかり反映されていたようである。

因みに山内任天堂旧本社ビルであるが、現在それを管理しているのは任天堂の創業家である山内家であり、それ故か2010年代以降の本邦における主要産業であるインバウンド顧客向けの観光業の隆盛に便乗した宿泊施設への改装の件(https://hotelbank.jp/kabuyamaproject-nintendo-plan-do-see/)がCOVID-19パンデミック確定前に話題になり、その後施設運営元となる企業が出した公式ニュースリリース(https://plandosee.co.jp/img/kabuyama-project.pdf)によると当初の計画を一部変更して飲食店も入る予定となったらしいが、天運とは必ずしも味方になるとは限らぬもので開業は今夏予定とあるが果たして開業に漕ぎ着けたところでどうなることやら。と言え開業したらそれはそれで話のネタとして改めて訪れてみたい場所ではある。

それにしても「任天堂創業の地」ポータルのある山内任天堂旧本社ビルにポケGOのポケストップやジムはないのに魔法同盟の喫茶店があり、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに登場したマリオの世界にピクミン達が違和感無く紛れ混んでいる造形の任天堂エリアがハリー・ポッターエリアの「黒い湖」の向こうに位置しているという偶然は、ナイアンティックによるピクミンアプリの件も含めNIAとワーナーと任天堂の三者によるXMを巡っての陰謀と言うか水面下での駆け引きでも起きているのか? という、Ingresエージェント視点からの考察(という名の妄想)の題材には持ってこいなのかもしれない。

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